波よせて

「ウェイバー ウェイバー ウェイバー ララ」
 深い意味なんてない。ただ街から逃げ出したかっただけだ。無闇やたらと輝くネオンに、今日は付き合いたくなかった、だけだ。短くはない時間を電車に揺られ、海に近い町まで来る理由なんて所詮そんなものだ。
 太陽は山の向こうへと消え、街灯が一つ二つ灯り始めていた。早く帰らないと明日に支障が出る。分かっては、いた。
 劣化して崩れ落ちたコンクリートを蹴り飛ばし、海沿いの道を無意味に歩く。細長い雑草が、巻き起こる風に揺れる姿は夜を切り裂くよう。そういえば幼い頃に、これと同じ葉で指を切ったことがあった。もしかしたらこの雑草は、本当に夜を切り裂いているのかもしれない。
 下らない思考の揺れを鼻で笑い飛ばす。全て満月のせいだ。
 道を行くと小さな店が建っていた。傍に街灯がなければ木々に埋もれていただろう店から、確かに誰かがいる、蠢く感触を覚えて、迷わず扉に手をかける。
 薄暗い店内に流れるのは似つかわしくないビッグバンド。真っ直ぐ海に面した窓の前を陣取る。座った椅子はひんやりと硬く、絶えず重心を変えていないと座り心地が悪かった。
 手始めにカルアミルクを一杯。甘ったるい味。そういえば高校の卒業式の夜、クラスメートの女の子がコーヒー牛乳みたい、って笑ってたっけ。それだけならかわいかったのに。その後突然、ピッチャーで持って来いって叫びだしたから、引いた。
 ……ん、あれ、未成年飲酒。そうだっけ。そんなこと、してたっけ。……あ、うん。してたしてた。よく先輩たちとペット片手に学校近くの公園で呑んでた。先生が通り掛かっても、遠いから分かんない分かんない、とか言って呑んでた。そんなこと、すっかり忘れてた。
 氷が溶けて薄くなってしまうのはもったいなくて。でもすぐに飲んでしまうのももったいなくて。テンポを変えることなく飲み続けていく。小さいグラスだからなくなるのも時間の問題か。まぁ、それもいい。
 店にはマスターと、あと二、三人。各々別の方向を向き、グラスを傾ける。ガラスの向こうで真黒な海を照らす満月の光は、スポットライトのようだった。
 月明かりの下、誰もいない道を一人の少年が踊るような足どりで歩いてくる。少年の姿を目で追う。少女と言われても納得できるくらい華奢な身体が時々浮いているように思えて目をこする。目眩に襲われる。そんなに酔っているのか? 馬鹿な。
 不意に少年は立ち止まり、こちらに振り向き微笑んだ。その面影は……誰だっけ。誰か、そう、ほら、あの……遠い日にいた、君。名前が出て来ないけど、確かに、君だ。
 誘われるように立ち上がり、店を出た。

 少年は既に数メートル先を歩いていた。突然立ち止まり、今気付いたかのように満月を見上げる。そのまま砂浜に駆け降りていく。後を追う。
 砂浜に降り立った時、少年は満月でも海でもなく、遠くを見ていた。こちらの気配に気付き、振り返る。昨日も、一昨日も、ずっとずっと前も、同じことが続いてきたという顔で、腕を目一杯広げ一言。
「海のむこうに、何がある?」
 海のむこうは外国だ。知らない人が生きている。花に水をやったり、数学が解けなかったりしながら、何でもない毎日を過ごしてる。
 ただ、それは答えじゃない。
 少年は答えを待たずに靴を放り投げ、服のまま海へと入っていく。初めはゆっくりと、次第に走り込むように飛び込むと、澱みないドルフィンキックで海の中を駆けてゆく。すぐに一筋の黒い影となり、水とじゃれながら、なめらかに滑っていく。
 行ってしまうのだ、と思った。
 少年はドルフィンキックを止め、満月のちょうど真ん中で浮かび上がった。遠浅の海で波に揺られながらも、少年は安定した立ち泳ぎをみせる。
 ふいに右腕を空に突き出し、そのまま沈む。頭まで海につかると、勢いだけで後転。白い踵が一瞬弧を描く。そのまま何事も無かったかのように海岸まで戻ってくる。
 波打ち際より少し海側。脛まで海につかる少年。髪の毛はもちろんのこと、Tシャツと短パンも、水に濡れてぺたり、少年に吸いついている。少年はそんなことなどお構いなしに、瞳だけで微笑む。満月の光で輪郭が明るくぼやける。
「ぼくはね、思うんだ。海のむこうには美しい日々を過ごせる大陸があるって」
 あまりに淡々と語るものだから、少年が本当に信じているのか分からなかった。けれど、揺るぎなくこちらを見つめる瞳を見ていると、自己暗示をしているようにも思えなかった。居心地が悪くなって、砂だらけの革靴に視線を落とす。
「ぼくが、ぼくらしく生きることの出来る場所があるんだよ。何も隠さなくたっていいんだ。ぼくがみんなと全然違うってことだって、内緒にしなくてもいいんだ。ねぇ、それって素晴らしいことだよね」
 聞かれても困る。そんなこと答えられないんだから。とっくに気付いてしまったせいで、答えられないんだから。
「君はそこに行くんだね」
 尋ねると少年は急にひしゃげた笑顔になった。
「出来ることなら、行きたい。ううん、行くんだ。あの海のむこうに」
 でも、少年の指差す先には暗闇しか見えなかった。満月の光ですら照らしきれない暗闇。あそこには闇しかない。見えない。何も、見えない。見えないのだ。
 闇しか見えないにも関わらず、少年の言葉を否定することは出来ない。闇しか見えないのは闇しか見ようとしていないだけだから。懸命に光を見ないようにしているだけだから。「それが現実」なんてつまらない言葉をお守り代わりに抱いてるだけだから。
 ……そのことにも気付いてしまっている。ずっと、ずっと昔に。
 だからこそ、少年について行くことは出来ないのだ。少年ともう二度と会うことはないと知りながら、指をくわえて見ているしか出来ないのだ。どうか闇の向こうに少年の求める光があるようにと祈りながら、少年の言葉に小さく頷いて、尋ねることしか出来ない。
「いつか、また会えるかな」
「もちろんだよ」
 迷いない返答は間違いなく "少年" のものだ。
「君の目指す街とは違う場所かもしれないけれど。近くまで行ったら必ず会いに行くから」
「うん」
 他に何を言っていいのか分からなかった。少年が過去に会った人間であるはずがないのだから。ここで言葉を重ねたところでそれは、自分の罪を軽くしようとしているにすぎないのだから。
「……それじゃあそろそろ行って来るよ」
 少年は沈黙を押し退けるように、ゆっくり、丁寧に言葉を選んで言葉を吐いた。
「ただ、ちょっとね。泳いでいくにはね、重いものが沢山ありすぎるんだ」
 両腕を振る。水滴すらも砂の上に置いていくように。大きく息を吐く。
「だからここに全部置いていくね」
 微笑みは間違いなく、一度手放したものは二度と手にすることが出来ないなんて、思ってもいない微笑み。人生のタイムリミットを感じていない、微笑み。
「きみは一緒に来ちゃだめだからね」
 波よせる。波よせる。
 満月を揺らす波がやけに多く見えたから、もう一度目をこすった。
 そのまま真っ直ぐ、街へ帰った。逃げ出した街にある、いつもの温もりの元へと。

 それから夏が行ってしまい。秋が来て、冬も去った。今は、春。梅雨の気配すら感じないこの季節は湿気が多くて、でも心地の良い温かさと涼しさがある。
 電車に乗ってまたやってきたこの町は、あの時と全く違う顔をしていた。夏を心待ちに輝く海。夏は、夏を心待ちにしている時が一番輝くのかもしれない。夏が来てしまったら、後は秋になるだけだ。
 シャッターの降りた店を素通りし、砂浜に向かう。去年来た後に工事をしたらしい。随分と階段が降りやすい。海が近くなのに手すりは滑りやすい。
 砂浜に立ってみると、高校生くらいの子どもたちが打ち上げられたごみを拾い終えたところだった。ごみ袋の周りで遊びに行く算段をしている。
 背の低い女性教師が何かを指示した。わあ、という声と共に、生徒たちは各々ごみ袋を持ち、去っていく。砂浜にはもはや、何もなくなってしまった。残ったのは白シャツ、ジーンズ、トランペットと、自分だけ。
 打ち寄せた波は、岩にあたって弾けてゆく。
 吹き鳴らしたトランペットは、ファンファーレに聞こえたかもしれない。
「ウェイバー ウェイバー ウェイバー ララ」

fine

Small Circle of Friends「波よせて」

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