少年は既に数メートル先を歩いていた。突然立ち止まり、今気付いたかのように満月を見上げる。そのまま砂浜に駆け降りていく。後を追う。
砂浜に降り立った時、少年は満月でも海でもなく、遠くを見ていた。こちらの気配に気付き、振り返る。昨日も、一昨日も、ずっとずっと前も、同じことが続いてきたという顔で、腕を目一杯広げ一言。
「海のむこうに、何がある?」
海のむこうは外国だ。知らない人が生きている。花に水をやったり、数学が解けなかったりしながら、何でもない毎日を過ごしてる。
ただ、それは答えじゃない。
少年は答えを待たずに靴を放り投げ、服のまま海へと入っていく。初めはゆっくりと、次第に走り込むように飛び込むと、澱みないドルフィンキックで海の中を駆けてゆく。すぐに一筋の黒い影となり、水とじゃれながら、なめらかに滑っていく。
行ってしまうのだ、と思った。
少年はドルフィンキックを止め、満月のちょうど真ん中で浮かび上がった。遠浅の海で波に揺られながらも、少年は安定した立ち泳ぎをみせる。
ふいに右腕を空に突き出し、そのまま沈む。頭まで海につかると、勢いだけで後転。白い踵が一瞬弧を描く。そのまま何事も無かったかのように海岸まで戻ってくる。
波打ち際より少し海側。脛まで海につかる少年。髪の毛はもちろんのこと、Tシャツと短パンも、水に濡れてぺたり、少年に吸いついている。少年はそんなことなどお構いなしに、瞳だけで微笑む。満月の光で輪郭が明るくぼやける。
「ぼくはね、思うんだ。海のむこうには美しい日々を過ごせる大陸があるって」
あまりに淡々と語るものだから、少年が本当に信じているのか分からなかった。けれど、揺るぎなくこちらを見つめる瞳を見ていると、自己暗示をしているようにも思えなかった。居心地が悪くなって、砂だらけの革靴に視線を落とす。
「ぼくが、ぼくらしく生きることの出来る場所があるんだよ。何も隠さなくたっていいんだ。ぼくがみんなと全然違うってことだって、内緒にしなくてもいいんだ。ねぇ、それって素晴らしいことだよね」
聞かれても困る。そんなこと答えられないんだから。とっくに気付いてしまったせいで、答えられないんだから。
「君はそこに行くんだね」
尋ねると少年は急にひしゃげた笑顔になった。
「出来ることなら、行きたい。ううん、行くんだ。あの海のむこうに」
でも、少年の指差す先には暗闇しか見えなかった。満月の光ですら照らしきれない暗闇。あそこには闇しかない。見えない。何も、見えない。見えないのだ。
闇しか見えないにも関わらず、少年の言葉を否定することは出来ない。闇しか見えないのは闇しか見ようとしていないだけだから。懸命に光を見ないようにしているだけだから。「それが現実」なんてつまらない言葉をお守り代わりに抱いてるだけだから。
……そのことにも気付いてしまっている。ずっと、ずっと昔に。
だからこそ、少年について行くことは出来ないのだ。少年ともう二度と会うことはないと知りながら、指をくわえて見ているしか出来ないのだ。どうか闇の向こうに少年の求める光があるようにと祈りながら、少年の言葉に小さく頷いて、尋ねることしか出来ない。
「いつか、また会えるかな」
「もちろんだよ」
迷いない返答は間違いなく "少年" のものだ。
「君の目指す街とは違う場所かもしれないけれど。近くまで行ったら必ず会いに行くから」
「うん」
他に何を言っていいのか分からなかった。少年が過去に会った人間であるはずがないのだから。ここで言葉を重ねたところでそれは、自分の罪を軽くしようとしているにすぎないのだから。
「……それじゃあそろそろ行って来るよ」
少年は沈黙を押し退けるように、ゆっくり、丁寧に言葉を選んで言葉を吐いた。
「ただ、ちょっとね。泳いでいくにはね、重いものが沢山ありすぎるんだ」
両腕を振る。水滴すらも砂の上に置いていくように。大きく息を吐く。
「だからここに全部置いていくね」
微笑みは間違いなく、一度手放したものは二度と手にすることが出来ないなんて、思ってもいない微笑み。人生のタイムリミットを感じていない、微笑み。
「きみは一緒に来ちゃだめだからね」
波よせる。波よせる。
満月を揺らす波がやけに多く見えたから、もう一度目をこすった。
そのまま真っ直ぐ、街へ帰った。逃げ出した街にある、いつもの温もりの元へと。
それから夏が行ってしまい。秋が来て、冬も去った。今は、春。梅雨の気配すら感じないこの季節は湿気が多くて、でも心地の良い温かさと涼しさがある。
電車に乗ってまたやってきたこの町は、あの時と全く違う顔をしていた。夏を心待ちに輝く海。夏は、夏を心待ちにしている時が一番輝くのかもしれない。夏が来てしまったら、後は秋になるだけだ。
シャッターの降りた店を素通りし、砂浜に向かう。去年来た後に工事をしたらしい。随分と階段が降りやすい。海が近くなのに手すりは滑りやすい。
砂浜に立ってみると、高校生くらいの子どもたちが打ち上げられたごみを拾い終えたところだった。ごみ袋の周りで遊びに行く算段をしている。
背の低い女性教師が何かを指示した。わあ、という声と共に、生徒たちは各々ごみ袋を持ち、去っていく。砂浜にはもはや、何もなくなってしまった。残ったのは白シャツ、ジーンズ、トランペットと、自分だけ。
打ち寄せた波は、岩にあたって弾けてゆく。
吹き鳴らしたトランペットは、ファンファーレに聞こえたかもしれない。
「ウェイバー ウェイバー ウェイバー ララ」
fine
Small Circle of Friends「波よせて」